中学生の子を持つお母さん。学校で問題が起こり校長と相対した。
校長は校長とはあるまじき態度でのらりくらりとだんまりを決め込んだ。どうやら定年を迎えるため、残り数ヶ月は出来る限り波風を立てたくないようだ。この態度には当然立腹。母親は友人らに「何もしてくれない!」と愚痴をこぼした。(もちろん校長先生が良くないことは間違いないがここでは母親の態度を考えてもらいたい。)
さて、年度も変わり新しい校長先生が赴任。今度の校長は革新的な考え方の先生で、どうやら昨年度までの学校運営に問題があったとしてこの先生の登場となった。前年度までの体制に不満を持っていたお母さん、今回は「今度の先生、何か新しい事をやろうとしているの。どう思う?」と又新たな愚痴。どうやら、何もしてくれなければ愚痴、何かしようとすると愚痴、結局何でも愚痴のようだ。それを聞いていたお友達の一人は「結局、あなたはどういう先生が希望なの?」と聞いたそうだ。
そのお母さんは自分自身が何にでも愚痴をこぼしていた事に、そこで始めて気が付いた。
自分の意見を話すのも間違っていないし、先生へ自分の意見伝え、先生の考え方を聞くのも悪くない。しかし、その前やるべき事があるのではないだろうか。なんでもかんでも安易に口に出さず熟考する必要があるのではないか。そうしなければこの事例のように、ただの愚痴にしか聞こえてこないだろう。さて、皆さんはどう感じるだろうか。そしてまた、普段どういう行動を取っているだろうか。私自身はどうか、それこそ反省し、熟考したい。
校長は校長とはあるまじき態度でのらりくらりとだんまりを決め込んだ。どうやら定年を迎えるため、残り数ヶ月は出来る限り波風を立てたくないようだ。この態度には当然立腹。母親は友人らに「何もしてくれない!」と愚痴をこぼした。(もちろん校長先生が良くないことは間違いないがここでは母親の態度を考えてもらいたい。)
さて、年度も変わり新しい校長先生が赴任。今度の校長は革新的な考え方の先生で、どうやら昨年度までの学校運営に問題があったとしてこの先生の登場となった。前年度までの体制に不満を持っていたお母さん、今回は「今度の先生、何か新しい事をやろうとしているの。どう思う?」と又新たな愚痴。どうやら、何もしてくれなければ愚痴、何かしようとすると愚痴、結局何でも愚痴のようだ。それを聞いていたお友達の一人は「結局、あなたはどういう先生が希望なの?」と聞いたそうだ。
そのお母さんは自分自身が何にでも愚痴をこぼしていた事に、そこで始めて気が付いた。
自分の意見を話すのも間違っていないし、先生へ自分の意見伝え、先生の考え方を聞くのも悪くない。しかし、その前やるべき事があるのではないだろうか。なんでもかんでも安易に口に出さず熟考する必要があるのではないか。そうしなければこの事例のように、ただの愚痴にしか聞こえてこないだろう。さて、皆さんはどう感じるだろうか。そしてまた、普段どういう行動を取っているだろうか。私自身はどうか、それこそ反省し、熟考したい。
以前、県のPTAを対象とした講演会で、今は白鴎大学で講師をしている歌手の山本コータローさんの講演を聞いた。その中で次のような話があった。「今の学生は同年齢の中だけで行われるサークル活動は出来るが、縦の関係があるクラブ部活動が苦手だ。」と。
このことはここ15〜6年前頃からの傾向であるらしい。さてこの結果どういった問題が考えられるのか。
一つは「歴史・伝統・文化といったものが伝わりずらくなっている。」ということだ。大学の部活そのものは4年間だが、そこにはOBの存在があり、結果として何十年もの歴史が出来上がる。何代もの昔の先輩が突然現れ、差入れを持ってきてくれたり、アドバイスをくれたり、はたまた就職の斡旋をしてくれたりと何かと結びつきが強い。
しかし、サークル活動では長くても1〜2年程度の活動。自分たちの世代が卒業するとそのサークルは活動を停止する。外から見るとそのサークルが無くなっても、また次の世代の仲間が集まって同種のサークルが今までとは違う形で活動・運営されるので問題の無いように思われるが実際はそうではない。継続性が無いから歴史が残らないのだ。突然昔の先輩が来るような心配も無いし、万一来ようものなら「うざい!来るなよ!」となるのだろう。今の若者の傾向は縦の関係を嫌うのだ。
例えは良くないかもしれないが「ホリエモン」に充分な部活の経験があれば先輩の声に耳を傾け、目上の人と会う際にはネクタイでもしたのではないだろうか。
もう一つは、「犯罪抑止の効果が鈍る。」ということだ。
縦の関係が正しく機能するということは言い換えれば例えば「近所に怖いおじさんがいる。」とか「目上の人の言うことは聞く。」ということに通じる。小さい頃からこういった環境に慣れていれば何となく年上の人の目を気にし行動するため、適度な自制心が働く。しかし、最近の犯罪に見られる凶悪さは「悪い事をすると、恐い大人に叱られる。」という経験の不足によるものだともいわれている。
山本コータロー氏の言葉を借りれば「だからこそ部活は大事」となる。
恐い先輩がいて緊張しながら部活に励み、卒業して改めて接すると良い先輩だった、なんてことは我々の時代には当たり前の事だった。そういった良い思い出となるような部活は大切だ。
道場という場所が「ちょっと怖いけどいい場所」になれるよう努力していきたい。
このことはここ15〜6年前頃からの傾向であるらしい。さてこの結果どういった問題が考えられるのか。
一つは「歴史・伝統・文化といったものが伝わりずらくなっている。」ということだ。大学の部活そのものは4年間だが、そこにはOBの存在があり、結果として何十年もの歴史が出来上がる。何代もの昔の先輩が突然現れ、差入れを持ってきてくれたり、アドバイスをくれたり、はたまた就職の斡旋をしてくれたりと何かと結びつきが強い。
しかし、サークル活動では長くても1〜2年程度の活動。自分たちの世代が卒業するとそのサークルは活動を停止する。外から見るとそのサークルが無くなっても、また次の世代の仲間が集まって同種のサークルが今までとは違う形で活動・運営されるので問題の無いように思われるが実際はそうではない。継続性が無いから歴史が残らないのだ。突然昔の先輩が来るような心配も無いし、万一来ようものなら「うざい!来るなよ!」となるのだろう。今の若者の傾向は縦の関係を嫌うのだ。
例えは良くないかもしれないが「ホリエモン」に充分な部活の経験があれば先輩の声に耳を傾け、目上の人と会う際にはネクタイでもしたのではないだろうか。
もう一つは、「犯罪抑止の効果が鈍る。」ということだ。
縦の関係が正しく機能するということは言い換えれば例えば「近所に怖いおじさんがいる。」とか「目上の人の言うことは聞く。」ということに通じる。小さい頃からこういった環境に慣れていれば何となく年上の人の目を気にし行動するため、適度な自制心が働く。しかし、最近の犯罪に見られる凶悪さは「悪い事をすると、恐い大人に叱られる。」という経験の不足によるものだともいわれている。
山本コータロー氏の言葉を借りれば「だからこそ部活は大事」となる。
恐い先輩がいて緊張しながら部活に励み、卒業して改めて接すると良い先輩だった、なんてことは我々の時代には当たり前の事だった。そういった良い思い出となるような部活は大切だ。
道場という場所が「ちょっと怖いけどいい場所」になれるよう努力していきたい。
「公園から遊具が消える」というNHKの特集番組を見た。
遊具は危険だから撤去する自治体が増えているということらしい。シーソー、ブランコ、りんごブランコ、スベリ台などが公園から無くなってしまうのだろうか。
何年か前に「PL法」という法律が出来た時も同じ感想を持ったが、利用する側のある意味無知から来る被害に対する結果、昔では考えられない状況が起こりえている。確かに大きな事故に繋がる例もあるのだろうがそれにしても個人的には首を傾げたくなるようなことばかりである。
最近では「鉛筆を削ること」も「りんごの皮むき」もさせていない親が増えているとも聞くが、では改めて問いたい。いったい危険というものはどこまで回避させられるのかということだ。事故というのは思いも掛けないことから起こるから事故な訳でどんなことをしても完全に防げる訳ではないはずだ。ならば、「小さい時から色々な経験をさせ、その中から新しいものに接する時は注意深く接するように。」という基本姿勢を伝える方がより的確な防御策になるのではないだろうか。
いろいろな場所で多くの保護者の方とお話すると中には子供に対する困難はすべて取り除くことが親としての役割のように考えられている方がいらっしゃる。
しかし、私はそうは思わない。親の役割はその子が将来生活していく上で困らないように育てることではないのだろうか。人間は生きていく上で必ず困難に出くわす。それを乗り越えるために心と身体と考え方を鍛えるのだ。そのために「極真」という場所を選んで頂いたのではないだろうか。保護者の皆さんにはここのところを理解してもらいたいのだが解っていただけるだろうか。
遊具は危険だから撤去する自治体が増えているということらしい。シーソー、ブランコ、りんごブランコ、スベリ台などが公園から無くなってしまうのだろうか。
何年か前に「PL法」という法律が出来た時も同じ感想を持ったが、利用する側のある意味無知から来る被害に対する結果、昔では考えられない状況が起こりえている。確かに大きな事故に繋がる例もあるのだろうがそれにしても個人的には首を傾げたくなるようなことばかりである。
最近では「鉛筆を削ること」も「りんごの皮むき」もさせていない親が増えているとも聞くが、では改めて問いたい。いったい危険というものはどこまで回避させられるのかということだ。事故というのは思いも掛けないことから起こるから事故な訳でどんなことをしても完全に防げる訳ではないはずだ。ならば、「小さい時から色々な経験をさせ、その中から新しいものに接する時は注意深く接するように。」という基本姿勢を伝える方がより的確な防御策になるのではないだろうか。
いろいろな場所で多くの保護者の方とお話すると中には子供に対する困難はすべて取り除くことが親としての役割のように考えられている方がいらっしゃる。
しかし、私はそうは思わない。親の役割はその子が将来生活していく上で困らないように育てることではないのだろうか。人間は生きていく上で必ず困難に出くわす。それを乗り越えるために心と身体と考え方を鍛えるのだ。そのために「極真」という場所を選んで頂いたのではないだろうか。保護者の皆さんにはここのところを理解してもらいたいのだが解っていただけるだろうか。
道場生に注意をする場合、良い悪いを出来るだけ分かり易く説明するように努めている。そして、そこには学級会的要素が多分に含まれている。仲間の行動や立振舞を見て・考えて、自分自身の反省に繋げてほしい。
Aさんはその場にいたので直接注意をし、反省を促した。
Bさんはその場にいなかったので他のみんなに話をし、その行動を注意し、自分の行動に置き換えてもらいたかった。(当然、その後本人にも注意した。)
しかし、Aさんの保護者からは「みんなの前で注意をされて恥かしかった、と言ってました。注意する際はみんなの前で注意せず、恥をかかさないように個別に注意をしては頂けませんか。」とお話を受けた。
Bさんの保護者からは「本人のいないところで話をするのは良くないのではないでしょうか。せめて本人のいるところで・・・」と言われた。
私はどちらの保護者にも同じ返答をした。「良い事は良い、悪い事は悪い、はっきり説明し指導していきたい。本人が居ても居なくても、その状況を説明し、本人以外にも考えてもらうきっかけにしたい。」と。
同じような事象でも全く正反対の受け止め方をされることに改めて驚かされた。こんなことではそれこそ「学級会」も行えなくなる。掃除をサボった子がいたとしよう。学級会でそれを取り上げ注意をすると、下手をするとクラス全体で一人をいじめた、と言われかねないのだ。そんなことでは子供たちの成長過程で正しい事を伝えられなくなる。この場合、冷静に判断すれば掃除をサボった本人が悪い事は事実で、親がそのことを棚に上げ、それを注意した先生に意見するなどとは全くもって本末転倒といえよう。
現在、「学級崩壊」ということをよく聞く、「教師の精神的負担増」という話題も日常茶番事だ。しかし、よくよく考えてみると親の側にも大きく反省する点がある。特に、我が子可愛さだけの考え方はその成長を見ながら変化させていく必要があるだろう。そしてまた、教師の側にも正々堂々とした態度を持ってもらいたい。そして、我々も正々堂々と指導してゆきたい。
Aさんはその場にいたので直接注意をし、反省を促した。
Bさんはその場にいなかったので他のみんなに話をし、その行動を注意し、自分の行動に置き換えてもらいたかった。(当然、その後本人にも注意した。)
しかし、Aさんの保護者からは「みんなの前で注意をされて恥かしかった、と言ってました。注意する際はみんなの前で注意せず、恥をかかさないように個別に注意をしては頂けませんか。」とお話を受けた。
Bさんの保護者からは「本人のいないところで話をするのは良くないのではないでしょうか。せめて本人のいるところで・・・」と言われた。
私はどちらの保護者にも同じ返答をした。「良い事は良い、悪い事は悪い、はっきり説明し指導していきたい。本人が居ても居なくても、その状況を説明し、本人以外にも考えてもらうきっかけにしたい。」と。
同じような事象でも全く正反対の受け止め方をされることに改めて驚かされた。こんなことではそれこそ「学級会」も行えなくなる。掃除をサボった子がいたとしよう。学級会でそれを取り上げ注意をすると、下手をするとクラス全体で一人をいじめた、と言われかねないのだ。そんなことでは子供たちの成長過程で正しい事を伝えられなくなる。この場合、冷静に判断すれば掃除をサボった本人が悪い事は事実で、親がそのことを棚に上げ、それを注意した先生に意見するなどとは全くもって本末転倒といえよう。
現在、「学級崩壊」ということをよく聞く、「教師の精神的負担増」という話題も日常茶番事だ。しかし、よくよく考えてみると親の側にも大きく反省する点がある。特に、我が子可愛さだけの考え方はその成長を見ながら変化させていく必要があるだろう。そしてまた、教師の側にも正々堂々とした態度を持ってもらいたい。そして、我々も正々堂々と指導してゆきたい。
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