「モンスターペアレント」最近新聞を賑わしている言葉だ。
一民間空手道場を預かる身にも痛切に感じる言葉である。
その昔、大学進学率が今ほど高くなかった時代は学校の先生は本当の人格者だった。事件も起こさず多くの人から信頼されるのが先生という職業だった。しかし、現在はどうだろう。聖職とまで言われた先生と呼ばれる人達の引き起こす事件が多すぎる。学校の先生はじめ、医者、弁護士、政治家・・・。多くの先生たちが事件を起こす。これでは「モンスターペアレント」の格好の餌食であろう。
昔に比べ多くの方々が大学に行く、そして多くのことを学ぶ、それは、純粋に学力が上がるだけではなく理屈・屁理屈の力もアップさせることにも繋がってしまったのではないだろかとも思ってしまう。
道場へもいくつかの意見が保護者から寄せられる。
クレームというほどのものではないが、「なるほど、こういう状況が現在の学校・教育問題を難しくしているのか?」と考えさせられてしまうことがある。特に保護者との間での「考え方の違い」の部分については価値観の多様化も相俟って意思疎通することが難しくなってきていると感じる。ただ、多くの場合は道場としてのあり方、指導方針、極真の歴史を丁寧にお話しすると理解してもらえている。
学校も時間を掛け話し合えば解決できることもたくさんあるのではないだろうかと思う。
ただ残念な事に今の教育現場は時間が無さ過ぎる。だから揉めたまま次の学期や次の学年へ移らざるを得ない。シコリを残したままでだ。これでは本当の被害者である子供たちに悪影響を及ぼしたままだ。
何とかならないのだろうか。
また、それはそれとして、言うほうも言われるほうも、どちらもがほんの少し深く考え、お互いがお互いの立場を弁えれば解決できる問題だと思うがどうだろうか。
一民間空手道場を預かる身にも痛切に感じる言葉である。
その昔、大学進学率が今ほど高くなかった時代は学校の先生は本当の人格者だった。事件も起こさず多くの人から信頼されるのが先生という職業だった。しかし、現在はどうだろう。聖職とまで言われた先生と呼ばれる人達の引き起こす事件が多すぎる。学校の先生はじめ、医者、弁護士、政治家・・・。多くの先生たちが事件を起こす。これでは「モンスターペアレント」の格好の餌食であろう。
昔に比べ多くの方々が大学に行く、そして多くのことを学ぶ、それは、純粋に学力が上がるだけではなく理屈・屁理屈の力もアップさせることにも繋がってしまったのではないだろかとも思ってしまう。
道場へもいくつかの意見が保護者から寄せられる。
クレームというほどのものではないが、「なるほど、こういう状況が現在の学校・教育問題を難しくしているのか?」と考えさせられてしまうことがある。特に保護者との間での「考え方の違い」の部分については価値観の多様化も相俟って意思疎通することが難しくなってきていると感じる。ただ、多くの場合は道場としてのあり方、指導方針、極真の歴史を丁寧にお話しすると理解してもらえている。
学校も時間を掛け話し合えば解決できることもたくさんあるのではないだろうかと思う。
ただ残念な事に今の教育現場は時間が無さ過ぎる。だから揉めたまま次の学期や次の学年へ移らざるを得ない。シコリを残したままでだ。これでは本当の被害者である子供たちに悪影響を及ぼしたままだ。
何とかならないのだろうか。
また、それはそれとして、言うほうも言われるほうも、どちらもがほんの少し深く考え、お互いがお互いの立場を弁えれば解決できる問題だと思うがどうだろうか。
その後もそういった兆候のある幼・少年が入門してくる。相変わらず学校での評価は芳しくないと聞く子たちが多いことは事実だがやはり道場ではそんなことは無い。とってもいい子たちばかりだ。
指導する先生に力が無いのかとも思ってしまう。
又、力があったとしても充分な時間が無く指導しきれていないのだとも思う。
行動に対する説明をし、理解させてやること。小さな我慢を繰り返させ、最終的には大きな我慢が出来るようにじっくり腰を据えて取組むこと(これこそ大人の側の我慢が必要)など、改善方法は山ほどあると感じる。
薬の力を借りなければならないほどの重い障害を持った子供たちもたくさんいるだろうが、少なくとも一空手屋の我々にもまだまだ出来ることはたくさんあるだろう。
「礼儀や礼節、挨拶の指導をおねがいします。」との入門動機が圧倒的に多い昨今だが空手道場の役割はそれだけではない。幼年部でさえも七つの道場訓をすらすら唱和する子供たちがたくさんいる。小さな声しか出せなかった子供たちや泣き虫だった子供たちが大きな声で先頭を切って声を出せるようになる。
授業中、イスに座っていられなかった子達も黙想と正座を覚え、じっとしていられるようになる。号令を掛け、技の説明をすることによって話し方や声の出し方も判ってくる。
発達障害と一括りにされて悩んでいる多くの方々、案外思ってもみない方法で活路が見出せるかもしれません。「発達障害」をテーマにした講演を聞き、ひょっとしたら空手にはそんな力があるのではないかと考えを深めた一日であった。
*長々とこの話題を記してしまった。専門の先生方からは厳しいお叱りを受ける内容であることは重々承知だ。しかし、実体験から身を持って感じることを素直に書かせていただいただけなのでお許しいただきたい。
指導する先生に力が無いのかとも思ってしまう。
又、力があったとしても充分な時間が無く指導しきれていないのだとも思う。
行動に対する説明をし、理解させてやること。小さな我慢を繰り返させ、最終的には大きな我慢が出来るようにじっくり腰を据えて取組むこと(これこそ大人の側の我慢が必要)など、改善方法は山ほどあると感じる。
薬の力を借りなければならないほどの重い障害を持った子供たちもたくさんいるだろうが、少なくとも一空手屋の我々にもまだまだ出来ることはたくさんあるだろう。
「礼儀や礼節、挨拶の指導をおねがいします。」との入門動機が圧倒的に多い昨今だが空手道場の役割はそれだけではない。幼年部でさえも七つの道場訓をすらすら唱和する子供たちがたくさんいる。小さな声しか出せなかった子供たちや泣き虫だった子供たちが大きな声で先頭を切って声を出せるようになる。
授業中、イスに座っていられなかった子達も黙想と正座を覚え、じっとしていられるようになる。号令を掛け、技の説明をすることによって話し方や声の出し方も判ってくる。
発達障害と一括りにされて悩んでいる多くの方々、案外思ってもみない方法で活路が見出せるかもしれません。「発達障害」をテーマにした講演を聞き、ひょっとしたら空手にはそんな力があるのではないかと考えを深めた一日であった。
*長々とこの話題を記してしまった。専門の先生方からは厳しいお叱りを受ける内容であることは重々承知だ。しかし、実体験から身を持って感じることを素直に書かせていただいただけなのでお許しいただきたい。
道場での一例を伝えよう。
今から10年前、道場開設した年の秋口に小学5年の男の子が入門して来た。
授業中、イスに座っていられないそうだ。中学になって授業に集中できないのは困るので道場の門を叩いた。実際に彼は病院で「軽度の多動性」だと診断されていた。
その男の子と話をすると確かに、一方的に自分のことを述べ、相手の話を聞かなかったり、突然他の話に割って入ったりすることがあった。
「集中力が足りないのかなぁ?」「物事を理解する力が不足しているのかなぁ?」などと考えながら週に2〜3回の稽古指導を行った。稽古時間の前後にも、相手の話を聞かずに喋っている時は「自分の話もいいけど、相手の話も聞くんだよ。」とか「突然話に割って入らずに、話すタイミングを見つけてごらん。」といったような簡単な言葉かけを行った。当然、稽古の中には「正座」の時間があるが意図的にその時間を少し長くしてみたりした。
3ヶ月ほどたったある日、お母さんから「最近はイスから離れることなく授業を受けられるようになりました。」と連絡があった。話し方も変わった。高学年なので大人の時間にも出席を促し、多くは無いがそれでも何度かは大人とも一緒に稽古した。そうするうちに自然に言葉遣いが変わっていった。
このとき、私はこう感じた。
「彼は発達障害や学習障害ではない。確かに学校の先生の手に負えない行動を取ることもあっただろう。しかし、それよりも不足していたのは、経験・体験を含めた小さな我慢の訓練が出来ていなかっただけなんだ。そして、理解できる平易な言葉での説明が不足していただけだったんだ。」と。
今から10年前、道場開設した年の秋口に小学5年の男の子が入門して来た。
授業中、イスに座っていられないそうだ。中学になって授業に集中できないのは困るので道場の門を叩いた。実際に彼は病院で「軽度の多動性」だと診断されていた。
その男の子と話をすると確かに、一方的に自分のことを述べ、相手の話を聞かなかったり、突然他の話に割って入ったりすることがあった。
「集中力が足りないのかなぁ?」「物事を理解する力が不足しているのかなぁ?」などと考えながら週に2〜3回の稽古指導を行った。稽古時間の前後にも、相手の話を聞かずに喋っている時は「自分の話もいいけど、相手の話も聞くんだよ。」とか「突然話に割って入らずに、話すタイミングを見つけてごらん。」といったような簡単な言葉かけを行った。当然、稽古の中には「正座」の時間があるが意図的にその時間を少し長くしてみたりした。
3ヶ月ほどたったある日、お母さんから「最近はイスから離れることなく授業を受けられるようになりました。」と連絡があった。話し方も変わった。高学年なので大人の時間にも出席を促し、多くは無いがそれでも何度かは大人とも一緒に稽古した。そうするうちに自然に言葉遣いが変わっていった。
このとき、私はこう感じた。
「彼は発達障害や学習障害ではない。確かに学校の先生の手に負えない行動を取ることもあっただろう。しかし、それよりも不足していたのは、経験・体験を含めた小さな我慢の訓練が出来ていなかっただけなんだ。そして、理解できる平易な言葉での説明が不足していただけだったんだ。」と。
同様の事例をもう一つ。
低学年のクラスでの出来事。
ある生徒が机の上に立っていた。それを見つけた先生が「机の上に立ってはいけません。」と注意した。それを聞いた彼は横になって寝転んだ。その後がよくなかった。彼がふざけたと思って先生はものすごい剣幕で「ふざけるんじゃない!」とやってしまった。彼は急に元気をなくしたそうだ。
これも叱られた記憶だけが残ってしまい、頭の中がパニック状態になってしまった訳だ。彼の今までの経験の中では「立つ事がダメ」な場合は「寝ていればいい」という発想しか思い浮かばなかったのだ。
この場合も、時間を掛けて説明をしてやれば解決する事象であった。
以上のように経験・体験の不足がともすれば周りの相手に奇異に映ることは多々あるはずだ。
図書館で大声を出せば「変わった子」ということにもなりかねない。
大人である我々にも似たようなことはあるだろう。貧乏ゆすりが生理的に許せない人、小さな話し声が非常に際立って聞こえる時、そんなちょっとしたことがほんの少し行き過ぎると周りから見て「変な人」や「変わり者」と呼ばれたりすることになるわけだ。
低学年のクラスでの出来事。
ある生徒が机の上に立っていた。それを見つけた先生が「机の上に立ってはいけません。」と注意した。それを聞いた彼は横になって寝転んだ。その後がよくなかった。彼がふざけたと思って先生はものすごい剣幕で「ふざけるんじゃない!」とやってしまった。彼は急に元気をなくしたそうだ。
これも叱られた記憶だけが残ってしまい、頭の中がパニック状態になってしまった訳だ。彼の今までの経験の中では「立つ事がダメ」な場合は「寝ていればいい」という発想しか思い浮かばなかったのだ。
この場合も、時間を掛けて説明をしてやれば解決する事象であった。
以上のように経験・体験の不足がともすれば周りの相手に奇異に映ることは多々あるはずだ。
図書館で大声を出せば「変わった子」ということにもなりかねない。
大人である我々にも似たようなことはあるだろう。貧乏ゆすりが生理的に許せない人、小さな話し声が非常に際立って聞こえる時、そんなちょっとしたことがほんの少し行き過ぎると周りから見て「変な人」や「変わり者」と呼ばれたりすることになるわけだ。
講演会での例を伝えよう。
小学1年生の子供に「真っ直ぐ帰ってきなさい。」という。
子供は「あの角も曲がるし、あの道も少し曲がっているし、真っ直ぐなんか帰って来られない。」と考え込み、その場に立ち尽くす。
親はそれを見て「何グズグズしてるの。早く行きなさい。」と急かして送り出す。
そんなことが続くと小学1年生のこの子供は、叱られたことだけが記憶に残り、そのうち自分の中の解決されていない問題だけを考え込み、それだけに意識が集中し、他人と会話をしなくなる。こうなると周りから見ると彼は軽度の自閉症ということになってしまう。
彼は「真っ直ぐ」という言葉だけを素直すぎるほど素直に受け止めただけなのに。
この場合は「真っ直ぐ」と言う言葉の中に「寄り道せずに・・・。」という意味が含まれていることを優しい言葉で説明してやれば理解させることが出来、彼の疑問を解決してやれるのに。
小学1年生の子供に「真っ直ぐ帰ってきなさい。」という。
子供は「あの角も曲がるし、あの道も少し曲がっているし、真っ直ぐなんか帰って来られない。」と考え込み、その場に立ち尽くす。
親はそれを見て「何グズグズしてるの。早く行きなさい。」と急かして送り出す。
そんなことが続くと小学1年生のこの子供は、叱られたことだけが記憶に残り、そのうち自分の中の解決されていない問題だけを考え込み、それだけに意識が集中し、他人と会話をしなくなる。こうなると周りから見ると彼は軽度の自閉症ということになってしまう。
彼は「真っ直ぐ」という言葉だけを素直すぎるほど素直に受け止めただけなのに。
この場合は「真っ直ぐ」と言う言葉の中に「寄り道せずに・・・。」という意味が含まれていることを優しい言葉で説明してやれば理解させることが出来、彼の疑問を解決してやれるのに。
先日「発達障害」の講演を聴いた。市内で小児科医をしている女性の先生の講演だった。
「発達障害は親の責任ではありません。悩んではいけません。」と、よく聞く話が導入部であった。
それをふまえて、講演の内容を聞いていると「叱ってばかりではいけません。褒めてあげましょう。」とか「子供の気持ちになって考え、接してあげましょう。」などというような大人の側、接する側の問題点をしきりに上げられていた。
「・・・???」これってひょっとしてある意味「親や大人の責任なのでは・・・」と感じてしまった。
(専門的には親の責任や環境のせいではないことは私も充分に認識しているつもりだ。しかし、ここではあえてこういった表現をさせて頂いた。)
私の道場にも「発達障害」とまではいかないが「そうかもしれない・・・?」との悩みを抱えて見学に来られ、入門するお子さんが何人かいる。幼稚園や学校で先生から『「その疑いがあるかもしれない。」と言われたので心配になり入門させました。』というのが入門動機だ。
しかし、そういったお子さんを道場で指導するとそのほとんどはとてもいい子で特に大きな問題は感じられない。道場での指導経験と講演の内容をオーバーラップさせるに付け、私の頭の中には「発達障害って何??? いったいなぜそうなるの???」の疑問がわきあがった。
「発達障害は親の責任ではありません。悩んではいけません。」と、よく聞く話が導入部であった。
それをふまえて、講演の内容を聞いていると「叱ってばかりではいけません。褒めてあげましょう。」とか「子供の気持ちになって考え、接してあげましょう。」などというような大人の側、接する側の問題点をしきりに上げられていた。
「・・・???」これってひょっとしてある意味「親や大人の責任なのでは・・・」と感じてしまった。
(専門的には親の責任や環境のせいではないことは私も充分に認識しているつもりだ。しかし、ここではあえてこういった表現をさせて頂いた。)
私の道場にも「発達障害」とまではいかないが「そうかもしれない・・・?」との悩みを抱えて見学に来られ、入門するお子さんが何人かいる。幼稚園や学校で先生から『「その疑いがあるかもしれない。」と言われたので心配になり入門させました。』というのが入門動機だ。
しかし、そういったお子さんを道場で指導するとそのほとんどはとてもいい子で特に大きな問題は感じられない。道場での指導経験と講演の内容をオーバーラップさせるに付け、私の頭の中には「発達障害って何??? いったいなぜそうなるの???」の疑問がわきあがった。
ちょうど一年前、ブログの中でこう記した。
『現在、医者や弁護士になるには多額の学費が掛かるという。
裕福な家庭で育った弁護士が数万円の詐欺事件を真剣に裁けるのか?
裕福な家庭で育った医者が安い費用での医療を真剣に考えるのか?
裕福な家庭で育った政治家が一般国民の生活を安定に導けるのか?』と。
安部前首相はまさに「裕福な家庭」で育った人間だろう。祖父も父親も政治家だった。それも、今の時代の政治家ではなく、「先生様」と呼ばれていた、そんな時代の政治家一家だったのだ。そんな中で育ち、そんな中で学び、そんな中で身に付けた価値観で政治を行ってきた。だから、やはりその理想の政策は一般国民の感情とは大きく掛け離れたものだった。
100円、200円、1000円、2000円を稼ぐことの大変さを知らないのではないかと思う。汗水流して稼ぐことの大変さを解っていないような気がする。その結果「美しい国」、「戦後レジームからの脱却」などと一般国民の興味の薄い理想論を謳った政策で突き進んできたのだが、国民感情からはどんどん乖離し、最後の最後にこの辞任劇となった。いったいなんということだろうか。
・・・ということはやはり、「政治に携わる者」、「一般国民の生活に密着した仕事をする者」は一般国民の経済観念や生活状況を理解できる者でないとダメだということになるはずだ。
今こそ我々国民は目を醒まさなければならない時にきている。一生懸命、真剣に、悩み、考え、そして信頼出来る人間を世に送り出さなければならないだろう。そして、我々国民の一人一人がそういった人間を見極める目を身に付けなければならないと思う。
「あれが悪い」、「これが悪い」と批判するだけでは何の解決にもならない。我々国民がもっとしっかりしなければこの国は良くならない。
『現在、医者や弁護士になるには多額の学費が掛かるという。
裕福な家庭で育った弁護士が数万円の詐欺事件を真剣に裁けるのか?
裕福な家庭で育った医者が安い費用での医療を真剣に考えるのか?
裕福な家庭で育った政治家が一般国民の生活を安定に導けるのか?』と。
安部前首相はまさに「裕福な家庭」で育った人間だろう。祖父も父親も政治家だった。それも、今の時代の政治家ではなく、「先生様」と呼ばれていた、そんな時代の政治家一家だったのだ。そんな中で育ち、そんな中で学び、そんな中で身に付けた価値観で政治を行ってきた。だから、やはりその理想の政策は一般国民の感情とは大きく掛け離れたものだった。
100円、200円、1000円、2000円を稼ぐことの大変さを知らないのではないかと思う。汗水流して稼ぐことの大変さを解っていないような気がする。その結果「美しい国」、「戦後レジームからの脱却」などと一般国民の興味の薄い理想論を謳った政策で突き進んできたのだが、国民感情からはどんどん乖離し、最後の最後にこの辞任劇となった。いったいなんということだろうか。
・・・ということはやはり、「政治に携わる者」、「一般国民の生活に密着した仕事をする者」は一般国民の経済観念や生活状況を理解できる者でないとダメだということになるはずだ。
今こそ我々国民は目を醒まさなければならない時にきている。一生懸命、真剣に、悩み、考え、そして信頼出来る人間を世に送り出さなければならないだろう。そして、我々国民の一人一人がそういった人間を見極める目を身に付けなければならないと思う。
「あれが悪い」、「これが悪い」と批判するだけでは何の解決にもならない。我々国民がもっとしっかりしなければこの国は良くならない。
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